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記録することと美しさと

fragment
  • ふちがみさんの文章を読んだ。拡散してしまったことで本人が戸惑っておられるかもしれないけど。

記録に残るんじゃなくて
記憶というのでもなくて
生まれては消える「いま」が愛おしいと思えるものであるように
もっともっとジタバタし、くよくよしつつ
本番に集中していきたい。
聴いて下さるかたにも、自分のカラダで感じるその時の「いま」を
一番大切にしていただきたい。

  • ふちがみさんらしい、筋の通った、優しさがにじむ文章だった。無理強いはしたくなかったんだろうと思う。それがふちがみさんの云うところの「ジタバタし、くよくよしつつ」に現れていると思う。そしてここに表明したことは、ふちがみさんからの、みんなへのお誘いの手紙だと思う。
  • 数日前から映画『アメリカン・ビューティ』のことを思い出していて、そしてきのう伊藤聡さんのケイクスのコラムが、2時間だけ無料になっていたスキに読んで、考えていたことと、ふだん自分が音楽を聴いたり演奏したりするときに考えていることと、共鳴する部分があり、たいへん腑に落ちた。
  • 『アメリカン・ビューティ』は大好きな映画で、いろいろ語りたくなってしまうんだけど、以前のブログに書いた感想は、美しさとは記録しえない刹那であり、しかしだからこそ永遠に続くことが可能なのだ、というような主旨だった、と思う。そしてその美しさはありとあらゆるところに偏在するのだ。自己肯定感を得ようとして不倫にハマったお母さんも、美人の友だちが妬ましい女子高生も、ナチスに憧れながら自分のセクシュアリティに不安を覚える隣家のお父さんも……とにかく登場人物がほぼ全般に、各々のステロタイプである「美しさ」にがんじがらめになっているところへ、リストラで何かが振り切れてしまったお父さんに引っ掻き回されて、決してハッピーエンドではないのに、ありえない形で胸を打つ、美しい瞬間に立ち会うことになる。
  • 登場人物のひとり、学校に馴染めない隣家の少年はビデオカメラで記録することが趣味で、風に舞うプラスティック・バッグの美しさを十数分にもわたって撮影したりするのだけれど、わたしは、この映画の中で起こった事件をきっかけに、彼は一旦カメラを置くのではないかと思った。彼が撮影という行為を辞める、ということではなくて、自分自身のためだけに、美しさを閉じ込めようとすることを辞めるのではないか。そして次に彼が切り取る時間は、もっと開かれたものになるだろう、と。もしそれに気づいたとすれば彼の未来は決して辛いものではない、と妄想したのだった。
  • わたしはライブを観に(聴きに、か)行って、録音しようと思ったことがない。もったいないから。そこに居る演奏者、スタッフ、ハコ、観客、全てに流れる時間がライブなんだから。聴くことに集中できない時もあるし、時間の経過を忘れてしまうほど入り込むこともあるけど、それはどれか一つの要素が悪いんじゃない。全体が複雑にからみ合ってできるものだ。もちろん、実力のある、誠実なプレイヤーが、その評価を得ているのは、素晴らしい瞬間を作り出す創造性や集中力が圧倒的に優れているということだけど。そういう方たちと比べるとぜんぜんパワーと努力の足りないわたしでも、ステージの上にいる時は同じ。お金を払っていただいて恐縮だけど、わたしの任務はその時その場に完全に居ることだけなので。一方、自分の演奏を小さな箱に詰めて、持って帰りたい、というひとを責めようとも思わない。それはその人なりの、音楽を大切にする方法だから。
  • だれのものでもない」と「じぶんのものにしたい」との間に引かれる線はまっすぐな一本ではない。「好きにしていい」わけじゃないけど「好きにしてもらってもいい」、じゃあどうしたいのヨ、と云われると困ってしまう。音楽が、ただ音楽であることを求め、喜びたい。鳴らした音がどうなるか、その結果は、わたしの側にあるのではなく、リスナーの側にあるのでもなく、その間にしかない。それこそが美である。そういう美を、わたしは求め続ける。その美しさはなにものにも代えがたいから。